アラフォー小梨のつぶやき

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新1万円札の渋沢栄一ってどんな人?5000円札の津田梅子、1000円札の北里柴三郎

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日本のお札が新しいデザインに

お札のデザインが20年ぶりに新しくなるそうです。

2千円札の存在は忘れ去られた感じになっていますが、昭和の時代には500円札もあったんですよね。

 

1万円札は第一国立銀行や東京証券取引所など多くの企業を設立、経営した実業家、渋沢栄一▽5000円札は津田塾大学の創始者、津田梅子▽1000円札は「近代日本医学の父」として知られ、ペスト菌を発見するなど医学の発展に貢献した北里柴三郎の肖像画を使用することを検討している。

1万円札の肖像は1984年に聖徳太子から福沢諭吉になって以来の変更となる。5000円札の肖像は04年に新渡戸稲造から日本で戦後初めて女性の樋口一葉になり、1000円札の肖像は同年に夏目漱石から野口英世に変わっていた。

紙幣の様式は通貨行政を担当している財務省、発行元の日本銀行、製造元の国立印刷局の3者で協議し、日本銀行法に基づいて財務相が決める。 

引用︰ Yahoo!ニュース

 

キャッシュレスの文化が根付けば紙幣の刷新も必要はないのでは?という声や、政府がタンス預金を狙っているのでは?という噂も出ているようですが、新しいお札に載る人物はどんな人なのでしょうか。

 

元号も令和に変わるタイミングで、お金も新しくなるのは少し楽しみな気もします。

一万円札は日本資本主義の父

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引用︰Wikipedia

 

名前︰渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)

出生地︰現在の埼玉県深谷市

 

1840年生まれの実業家で、1931年に91歳で死去しています。

 

尊王攘夷運動に参加していた渋沢栄一ですが、高崎城の乗っ取りや横浜の異人館焼き打ちといった過激な計画をしていたそうです。

この計画は中止していますが、その後は京都で一橋慶喜(徳川慶喜)の家臣となります。

教科書で習ったような言葉ばかりがでてくるところに、時代や歴史を感じますね。

 

27歳の時には、徳川慶喜の弟の徳川昭武のおともとして、ヨーロッパ各地を訪問した際には、パリの万国博覧会にも行っていたようです。

明治維新後の新政府では貨幣・金融・財政制度の改革に力をそそいだ渋沢栄一は、退官後の1873年に第一国立銀行(現みずほ銀行)を開業しています。

その後も、東京ガス、王子製紙、東京海上、キリンビール、サッポロビール、帝国ホテルなど500社以上の設立や育成に携わっていたことから「日本資本主義の父」とよばれるようになったそうです。

 

5000円札は津田塾大学の創設者

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引用︰ Wikipedia

 

名前︰津田 梅子(つだ うめこ)
出生地︰江戸・牛込
 
1864年生まれの日本初の女子留学生で、1929年に64歳で死去しています。
 

佐倉藩士で農学者の津田仙の次女として生まれた津田梅子は、6歳で岩倉使節団に同行して渡米しました。

 

資料によっては「7歳」「8歳」との記載もありますが、米国ではキリスト教の洗礼を受けて、11年間すごしていたそうです。

日本には17歳のときに帰国していますが、その後は華族女学校の教授に就いて、24歳で再び渡米し、ペンシルバニア州のブリンマー大学で生物学を学びました。

津田梅子はヘレン・ケラーやナイチンゲールとも会っていますが、日本女性の高等教育のために1900年に女子英学塾(津田塾大学)を開校します。

 

「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」ということを手紙に書いていうた津田梅子は、日本での結婚観が嫌だったようで、生涯独身を貫いています。

この津田梅子の考え方は、現代の女性も共感できる人が多いかもしれませんね。

 

1000円札は近代日本医学の父

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引用︰ Wikipedia
 
名前︰北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
出生地︰現在の熊本県小国町
 
1853年生まれの細菌学者で、「日本の細菌学の父」「近代日本医学の父」とよばれていますが、1931年に78歳で死去しています。


北里柴三郎は18歳で熊本医学校(現・熊本大医学部)に入学し、その後は東京医学校(現・東大医学部)でも医学を学んでいます。

大学卒業後は内務省衛生局に就職しましたが、1885年にはドイツへ留学します。

細菌学の権威とよばれるロベルト・コッホに師事しており、留学中に破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を発表しました。

日本へ帰国後の1892年には伝染病研究所を設立、さらに2年後に香港でペスト菌を発見しています。

1914年には私財を投じて北里研究所を創設しましたが、これは伝染病研究所が東京帝大の下部組織へ移管されることに反対したものだったそうです。

 

1917年に慶応大の医学部開設にあたって医学科長に就任、北里柴三郎が亡くなって31年後の1962年に北里大学が創設されました。

 

北里柴三郎という名前より、北里研究所の方が世間には聞き馴染みがあるような気がします。